LS3/5Aについて

My-Fiスピーカー LS3/5Aで聴こう

シベリウス第7交響曲 冒頭のティンパニ

音楽に興味を持ち始めた頃から積算すると、結構な数の”音楽評論”と”オーディオ評論”に目を通してきました。しかしそのほとんどは、好き/嫌い良い/悪いが論じられているだけで、いやいやそれは評論ではなくて感想文でしょうというような代物でした。外国はいざ知らず、日本では高価だったレコードや蓄音機という商品のお買い物ガイドの文章がそのまま"評論"として定着した歴史があるためかもしれません。

でも、ごくたまに評論らしい評論に出会うこともあります。

 シベリウスの<交響曲七番ハ長調>作品105を聴く時、最初のティンパニの一音と、それに続く低音弦楽器の上行音階に、非常に重要な演奏の判断基準が秘められていることに気づく必要がある。つまり冒頭の低い「ト音」が、前打音を二個伴ったアクセント付加のピアノ(弱音)で奏されるティンパニの一撃であり、これが上行音階の出発音であることを留意していない演奏だと、ティンパニとチェロ+バスの音階の間が途切れて、一本の旋律として繋がらなくなってしまうのだ。(中略)

 ヴァイオリンの「ト音」から「変ホ音」までの短6度音程上行は、途中からティンパニオクターヴ下で補強を受けているのだが、ティンパニは「ト音」の持続でピアノからクレッシェンドするトレモロ。6度跳躍して「変ホ音」に達すると、今度はメッツォ・フォルテからトレモロディミヌエンド。ここで、このように6度音程がはっきりと輪郭を現している以上、開始のティンパニの「ト音」が単独の存在である筈がなく、続く上行音階動機と分離されて良い理由は全く見つからない。

 ティンパニの「ト音」から静かに始まって、上行と平行してクレッシェンドし、しかもこのクレッシェンドに楽器の増加が伴うという発想を持っている以上、開始音としてのティンパニの「ト音」が、ただ単に曲の開始というだけではなく、冒頭上行音階動機の出発音であることは明らかだ。こうして動機の冒頭音としてのティンパニの「ト」音の位置づけが説明される以上、演奏にも明確にそれが反映されなければならない筈だ。

〜 諸井誠著「交響曲名盤探訪」(1995年、音楽の友社発行)から引用

(ただし文字の着色は原著には無い)

曲頭のたった一発(前打音を含め三発)のティンパニに重要な意味があるとは、思いも寄りませんでした。上の引用文の着色文字と対応する箇所を下のスコア抜粋に示します。

 

f:id:whiteparasol:20200712113446p:plain

 

 さらに、もし最初のティンパニの「ト音」を上行音階に含めずに上行音階が「イ音」から始まる(すなわちイ短調)と考えた場合を検討して、次のように述べています。

(前略)この上行音階旋律の頂点に来る和音(変イ・変ハ・変ホ)はイ短調とは全く無関係な変イ短調からの借用和音なので、よもやイ短調などと開始の調整を見誤ることはなかっただろう。説明があまりに複雑になり、専門化するのを恐れて、ここではこの和音の和声法的意味の説明は避けることにしたいが、少なくとも、イ短調とすれば、この変イ音上の短三和音の存在意義は著しく説明しにくいものとなる。

以上の論拠によって、ティンパニとチェロ+バスの音階の間が途切れずに一本の旋律として繋げられた演奏、すなわち ソ・ラシドレミ〜ではなくてソラシドレミ〜と演奏すべきと結論付けているわけです。

どうでしょうか。こんな風に書かれれば実際に音を聴いてみたくなりませんか。文中で例示されている演奏録音を貼っておきます。

 

■ テンポが速くて論外としながらも「ト音から始まる音階上行線の構造が非常に明確」と評されたムラヴィンスキー

www.youtube.com

 

■ 桁外れにゆっくりしているとしながらも「冒頭のティンパニの音程が正確」で「ト音からチェロのイ音への推移も音量のバランスが良好なので完全に一つの旋律線に聞こえる」と評されたラトル旧盤

www.youtube.com

 

■ 「私はサー・ジョン・バルビローリシベリウスを、この曲に留まらずシベリウス解釈の基本と見做している」と評されたバルビローリ新盤

www.youtube.com

 

こうしてみると、諸井誠が評価した三つの演奏でもずいぶん印象が違いますよね。これがクラシック音楽というものです。

spotifyで聴けるたくさんの録音の中で、諸井派の演奏と非・諸井派の演奏がどの程度の割合なのか、冒頭のみざっと聴いた印象を下記に示します。(※印はspotifyに複数の録音があった指揮者ですが、全てを網羅できているわけではありません。)

 

 <ティンパニが上昇音階の始まりの音に聴こえるタイプ(諸井派)>

(以上20種類、順不同)

 

ティンパニが上昇音階から孤立しているように聴こえるタイプ(非・諸井派)>

(以上29種類、順不同)

 

全体として見ると諸井派は4割程度でした。興味深いことに、同じ指揮者の複数の録音で諸井説を支持しているのはC.デイビスのみでした。マゼールバーンスタインカラヤン、ラトル は旧録音では諸井説を支持するも新録音では不支持という心変わり派(諸井氏は楽曲全体の演奏としてはカラヤンの新録音を称賛していますがティンパニの出来については触れていません)。

逆に、4種類の録音でいずれもティンパニを孤立気味にしているのがシベリウススペシャリストであるベルグルンド。2種類の録音ではヴァンスカとインキネンとストコフスキーです。

こういう場合、諸井説が正しい/間違っている、とすぐに白黒を付けるのは違うと思います。そうではなくて、諸井説を採った場合、楽曲全体へはどのような影響があるのか、どのように演奏すべきなのか、反対の立場を採った場合はどうなのか、そしてそれはなぜなのか、そういったことをあれこれ考える楽しみもクラシック音楽には余白として残されていると思うからです。(ポップスの場合、こういう理屈を言うのはご法度です。考えるな、感じろ!というのがポップスの教義なので。最近はクラシック界もそちらの方向への言論統制が強まってきて、こういった小理屈は嫌われるようです。)

 

<おまけ>

シベリウス交響曲第7番冒頭とブラームス交響曲第3番冒頭のスコアを並べてみると、なかなか面白いです。拍子はどちらも三拍子系、低弦が半拍ずれながらリズムを刻み、それに乗って直線的に上がる/下がる旋律線。音にすると全然違うのですが。この箇所のみならずシベリウスの曲には時々ブラームスがちらりと聴こえたような気がするときがあります 。詠人しらずの格言「良い芸術家は模倣し、偉大な芸術家は盗む」とはこういうことを言うのでしょうか。

 

f:id:whiteparasol:20200716221631p:plain

シベリウス第7番の冒頭

f:id:whiteparasol:20200716221726p:plain

ブラームス第3番の冒頭