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オーディオポエムの源流を訪ねて(その2)

 

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本来ならオーディオマニアの旧約聖書であるべきはずだが、どういう訳か誰も取り上げない『蓄音機読本』。前回に引き続き、読み応えのある一編をご紹介します。

今でこそ、真空管アンプトランジスタでは得られない特有の持ち味があるということで人気を博していますが、真空管が最新のデバイスであったこの時代にはどのように評価されていたのか、ぜひお読みいただければと思います。


 上司小剣(かみつかさ しょうけん)は、むしろ蓄音機愛好家として知られている小説家です。死後70年が経過した2018年1月1日に『蓄音機読本』の著作権が切れたので、前回同様その中から一章を転載します。なお、原文の旧漢字は新字体に改めました。誤字・脱字等あればご容赦ください。


愛機を語る 

 私は近頃、枯木や金石にも生命があるやうに思はれてならぬ。石の成長すると否なとは、学者の説を待つまでもなく、「……さざれ石のいはほとなりて……」の歌で、千年前の日本人が既にこれを考へていたことがわかる。枯木と金属との集合から成る蓄音機の如きは、大なる生命をもつている。彼れはよく働いて、音楽を生産する。

 私は幼少の時から、器物を愛することを知つていた。長ずるに従つて、この器物愛が一つの「癖」となつた。さうして、器物もまた愛によつて活くること、人間と同じであるのを知つている。

 殊に蓄音機の如きは、愛によつて活くる力の強いものである。同じ蓄音機にしても、これを熱愛する人によつて用いられるのと、それほどでない人に使はれるのとでは、よほど働きがちがつてくる。愛しなければ機械が活きてこない。

 ここに一つの比喩がある。或るところで、甲と乙とが隣り合つて、新しく家を建てた。設計も用材も坪数も、全く同様で、一見双生児のやうな家である。夜なんぞ、両方で間ちがへて、隣りの家へ入りさうであつた。そこに十年の歳月が流れた。甲は勤勉で、用意周到で、よく掃除し、よく修繕したから、十年経つても、その家は美邸であつた。それに引きかへ、乙は無精者で、だらしのない人間だつたから、日々の掃除も、年々の修繕も怠り勝ちで、十年の後には、隣家と比べものにならぬあばら家となつた。そこへ家屋税の評価委員が来て、双方の家を調べた上、課税額を決定したが、甲の払ふべき税は、乙の払ふべき額の約三倍であつた。甲は大に憤慨して、もともと同価額で建てた家で、建築当時から現在まで家屋税も同額であつたのに、いま俄かに甲の家屋税を乙の三倍にするのは怪しからん、といきまくのである。しかし、区役所では、現在の家屋の評価を基とした賃貸価額によつて課税するのだから、甲の家屋が乙の家屋よりもズツと立派で美しいために、さうなつたのは已むを得ない、と説明したけれども、甲はなかなか屈しないで、自分の家がまだ立派だと思はれ、美しいと見らるるのは、一に自分の勤勉と注意周到とのためである。勤勉と注意周到とに課税するといふ法はない。よろしく、乙の怠惰とづらう(注:「づらう」に傍点)とに課税すべし。だと抗弁し、行政訴訟にまで持ち出した、といふのである。

 同じ家でも、これを愛して、手入れを怠らぬのと、さうでないのとによつて、これだけの相違を生ずる。蓄音機の如きは、殊にさうである。私なんぞの場合は、少し極端だから、一般の例にはならぬかも知れないが、先づ一軒の家に一台の蓄音機があるとすれば、第一にそれを取り扱ふ人を一人に定めておく、といふのが、何よりも必要である。誰れ彼れの区別なく、勝手にいぢり散らすのでは、どうしても無理が出来たり粗雑に流れたりして、機械に狂ひを生ずる因となる。すなはち、機械を愛する所以でないのだ。子供のための蓄音機を一台、どうしても備へる必要がある。それには、音色なんぞどうでもよい、堅牢一式のものを選ぶことだ。ヴイクターなんぞは、丈夫向きに出来ていて、木製にしなければならぬ部分に、堅固な鉄を使つたりしてあるから、少々乱暴な扱ひ方をしても、めつたに狂はない。

 

      ◯

 

 いやでも、ここで、私の蓄音機使用法を述べなければならぬ。断つておく、私は電気蓄音機といふものが大きらいである。学術上ではどうあらうと、私は電波による音の伝送には無理があると思つている。真空管を用いて音の再生、アンプリフアイヤーなるものは、感度がよすぎて不自然になると信じている。世界第一の高価な真空管を用い、その他の部分品も、特殊のものを選び、一万円もかけて蓄音機を造ればどうだか知らぬが、そんな優秀なものは、個人の手に入れることが、困難といふよりも、不可能だと聞いている。それに日本は湿気の強い国で、さうしたデリケートな電気器具に恵まれていない。電話用器の如きは、特別に日本向きの、湿気の堪へる拵へ方にしてあるさうだが、あれはただ通信用だから、意味がハッキリわかればよいので、知人の声が似ても似付かぬ音色になつて響いて来ても、一向構はない。ところが、ラヂオや蓄音機はさう行かぬ。原音そのままでなければ腹が立つ。トーキーの可なりいいものを聴いたが、いづれも語尾が、ピンピンと、ハガネを弾くやらに響いて、しんみりしたところがない。どんな雄弁家だとて、あんなに悉(ことごと)く 人の胸へ声を反響させるやうなことはない。

 コンサートや、商人の客寄せや、カフエのやうなところなら、電気蓄音機もよからう、いや電気蓄音機でなければならぬであらう。しかし、個人の家庭にあっては第一あんなものは、やかましくてしやうがない。 レオスタットで調節して音を低くすれば、さツぱり味のない、一そう不自然なものになる。いづれにしても、電気蓄音機からはしみじみとした物静かな味が出ない。むろん、オーケストラーのある部分なんぞは、電気蓄音機によいところはある。しかし、いろく差引き勘定をしてみて、ドラルミンのサウンドボツクスを用いた機械蓄音機の優秀な ―― それは同じ型のもの百台の中から一台ぐらい特別に出来のよい ―― ものを選び出したのに上越すことはない。

 時計でも、写真機でも、蓄音機でも、いまは大量生産で、同じ型のものを幾百千となく造るのであるが、やはり昔時の手工業の如く、同じ品であつても、甚だしい不出来がある。たとへば数年前に流行ったヴイクターのクレデンザにしても、出來栄え百パーセントのものは、何百台とか何千台とか日本へ輸入した中で、僅か三台しかない、その一台はヴイクターの本社の客間とかに飾つてあったもので、他の一台は、どこそこ、いま一台は、あすこにあると、委(くわ)しい話を聞いたことがある。 およそ名刀を手に入れるのが、戦国時代の一大難事業であったらしく、同じ正宗や大兼光(おおかねみつ)の在銘でも、出来不出来が甚だしくて、切れ味がちがふのださうな。蓄音機もそれと同じく、たとへ黄金を山と積んでも、出来栄え百パーセントのものを即座に手に入れることはむづかしい。出来榮え百パーセントのものは、富籤(とみくじ)や勘業債券の一等にあたるやうなもので、よほど幸運な人でなくては駄目であるが、下つて、出来栄え七十パーセント、八十パーセントのものでも、なかなか手に入らぬ。故東健而氏は自家所有のクレデンサを出来栄え七十五パーセントと自ら評価し、その辺にザラにあるのは、いづれも五十パーセントか、せいぜい六十パーセントぐらいのものだ、と言つていた。

 されば、出来栄えのよい機械蓄音機を持つている人は、旧式だなぞと言って、軽々しく それを手離さないことだ。ガーガーとやかましい電気蓄音機なぞに買ひかへたら、初めの うちは珍らしくとも、すぐ飽きてしまふ。殊に私の場合は、何も他人に聴かせるための蓄音機でないから、自分にさへ満足なら、それでよいので、電気蓄音機を好む人の講釈や抗議は少しも聴きたくない。

 今はもう、全然人の顧みないマイカサウンドボックスを付けた最旧式の蓄音機にさへ、かけるもの次第で、なかなかよく聞えるのがある。マイカのよいのにあたると、実に素晴らしいもので、いまは知らぬが、二三年前には、吹き込み会社で、レコードの出来具合を試験するのに、電気蓄音機や、ドラルミンを用いず、必らずマイカによつていた。それほどマイカには優秀なのがあるのだ。それにマイカ時代の二千円内外もした蓄音機の内部構造は甚だ念入りによく出来ていて、私の如き機械美の憧憬者は二時間約三時間も、あの立派な函を開いて、取り出したモーターに眺め入り、うツとりとなることがある。 レコードなんぞをかけずとも、函やモーターを撫でたりいぢつたりしているだけで、十分、楽めるものだ。

 

      ◯

 

 話が横道へ逸れたが、さて、いよいよ私の蓄音機の扱ひ方を語るとして、第一私はいま二台の蓄音機を持つている。(嘗ては四台持つていた) そのうちの一台は、五年ばかり前手に入れたブラ ンスイツクのマドリイ号で、これはなかなか具合がよい。回転に際して微音だもしない。夜半四辺の静かなころ、これを回はして、ジツと耳をおツ付けても、ターンテーブルが空気を切るスーという音のほか、何も聞えない。私はずいぶん方々の蓄音機を試めしたが、こんなのは一つもなかつた。

 この蓄音機を手に入れたのは、何年か前の三月六日、日本の地久節の日であつたが、例月六日には、他にどんな用があらうと、私はこのモーターを函から取り出して、要所要所に柔かい油を注す、さうして、毎年三月六日には、別に通知をしないでも、頼み付けの技手が来て、ゼンマイにグリスを入れてくれる。キチンとして、毎年毎月変ることがない。それから、レコードをかける時でも、ただ機械を回転させる時でも、(私にはこのごろ機械を空回りさせて独りで楽んでいる時の方が多い)必らず先づ微温湯で手を洗い、石鹸を使 って、汗や塩気の付かぬやうにする。斎戒沐浴大袈裟だが、手ばかりでなく、埃りの付いているやうな着物は、必らず新しいのに着更へて、蓄音機に向ふ。蓄音機の動いている間は、決して飲食しない、菓子を一つ摘まんでも、砂糖気が機械のどこかに付くのを恐れるのである。曾て、私の愛機マドリイ号に些少の回転不同を生じたので、直に技手を呼んで 分解してみたところ、どの部分もちゃんとしてみて、ゆるいところがない。手は汗みづくになつて漸(ようや)くゼンマイを入れた鋼鉄の函に差さつた心棒に付いている指輸のやうな砲金、普通にメタルと言っているものが、少し磨滅していたのを発見し、早速それを取りか へたことがある。

 それから、冬だと、瓦斯ストーブのある室によく蓄音機を置いてる人があるけれど、 あれは甚だよろしくない。瓦斯を焚くと、機械の金属が錆びて腐る。理由は知らないが、事実はまさにその通り。一体に煙りがわるいやうで、タバコなんぞも機械の側で吸はぬがよい、私は大のタバコ嫌ひだからよいが、人によると、タバコをくはへながら、蓄音機をかけたりして、回転盤の上へ灰をおとし、それで平気であるといふ乱暴ものもある。小心翼々 ーー 私の蓄音機に対するのは、常にこれで、むろん、誰れにいぢらせない。死ぬ時 は、愛機マドリーを壊し、モーターを湖水の底にでも沈めたいと思つている。松永久秀が 志貴山の落城に際し、愛する茶鐺(ちゃとう) を抱いて、焼け死んだ気持ちは、私によくわかっている。彼れは器物愛の大先輩である。

 たとへ僅(わず)かでも、蓄音機の回転に異様な音のするのは、私の最も厭ふところである。それは、可なりひどいゴトゴトといふガヴアナーの音がしても、レードをかければ、音楽に消されてしまふから、実際上別だん不都合はないやうなもの、実用に事は欠かなくとも、気持ちのわるいといふことは、実用を超越して、私の心身を痛める。何事も実用実用で、実用を重んずる結果、精神上の鍛練がおろそかになつて、知らず知らずに恐ろしいこ とを招来する原因になる。それが現在の広い意味での世相の一つである。....と、いやに話をむづかしく持つてまはったのをお詫びするが、ガヴアナーの些少なゴトゴトでも、それが遂ひに救ふべからざる故障のもとになることがある。しかし、私はそんな故障の有無に関はらず、蓄音機がよけいな音を発するのがいやである。自分が病気になるのよりも、蓄音機が微恙(びよう)に罹るのを悲む。電気蓄音機、または動力ばかりを電気にした蓄音機は、どんなに注意しても、ぶうーんと唸る音がする。私が電気蓄音機を厭ふ一つの原因はそこにもある。いつぞや、友人の家で、電気蓄音機を聴いていると、一天俄に掻き曇つて、ひどい雷鳴だ。雷鳴と戦ふつもりで、友人は蓄音機をかけつづけようとしたが、パツと消えた電燈 とともに、停電だ。自身の内部の生命によって動くことを知らぬ電気蓄音機は、外部から仰ぐ力を断たれて、忽ち頓死してしまふ。こんなことのあるのも、私が電気蓄音機を厭ふいま一つの理由である。それに一時間もかけていると、自然に熱をもつて来て、十分問ぐらい休まさねばならぬ、あれも電気モーターの欠点だ。

 

      ◯

 

 おなじみのあらえびす氏は、珍品レコードの蒐集で日本一...と言はれたのは昔のこと、 いまは世界有数のコレクションを持つて居られる。いろいろのものを差し引きして、日本がどれだけの程度に世界の大国であるかは知らぬが、あらえびす氏のレコード通と、その 蒐集とは、まさしく世界的である。大家巨匠軒を並べていても、いざ世界的となると、片手をあげて、先づ親指を屈するにさへ、ちよつと困る日本だ。しかし、あらえびす氏のレコードだけは、たしかに、何んの躊躇なく、世界的の一として、指をかがめることが出来る。ただ私の常に遺憾だと思ふのは、氏が一向機械に無頓着なことである。私のやうに小心翼々として機械に奉仕しているもの眼から見れば、氏の大謄不敵(だいたんふてき)にただただ驚くばかりである。しかし、世上のフアンにはこれが多い。 レコードは比較的大事にするが、機械の取扱ひは甚だぞんざいで、詰まりレードを中心にして、機械を奴僕(どぼく)視するのが、一般ファンの常態である。 あらえびす氏も請まりその流義の大文ファンなのであらう。「菊つ くり汝は菊の奴哉」といふ俳句があるが、私は全く蓄音機の奴である。 レコードはどうで もよい。誰れか私の蓄音機に向つて石を投ずるものがあつたら、私は昔新田義貞の家来が身を以って義貞に注ぎかかる敵の矢を防いだやうに、自分の身体で蓄音機を掩ふであらう。自身が怪我して蓄音機が助かれば、この上ない欣びである。若し自分の身体で間に合はなければ、レコードの障壁を築いても愛する蓄音機を護る。レコードなんぞ、すツかり毀してしまつてもい、蓄音機さへ無事であるならば。......

 私の蓄音機は、それをかけて音楽を聴く時だけの必要物ではなく、常住座臥、愛機の側に居なければ、私は仕事も手につかず、安眠も出来ぬ。それで私は狭い書斎へ愛機マドリイを持ち込み、仕事の不便を忍んで、これがためにわざわざ机を小さくし、(他の調度との調和をはかるため)次ぎの洋室から蓄音機を聴くことにしている。愛機と同室を許されるのは私だけで、家族等は決してこの室に入れない。夜もやはり、狭いのを忍んで愛機の前に臥床を舒(の)べ、そこでなければ、私は眠れない。深夜眼が覚めると、枕の上からつくづく愛機を眺めて、獨りで楽んでいる。器物愛に無頓着な人は、狂気の沙汰と思ふであらうが、 ここまで行かねば、蓄音機ファンも徹底しない。

 前にも言ったとほり、卑近な実用ばかりを考へるのは愛の極致でない。正宗の名剣を愛する人にしても、それを抜いて振りまはしたり、人を斬つたりしなければならぬといふことはない。名器名刀となれば、ジツとそれを見入っているだけで、既に実用を果たしているのだ。これをブウルジウア意識なぞと言ってはいけない。日本人は元来、直接の実用よりも、趣味を重んする人種だ。されば西洋人が口ーマの昔に廃棄したゆるやかな広袖の服を、いまもなほ着物として用いている。支那人だって、明朝の頃までは、ゆるやかな服であつたが、実用上仕事に不便だと言って、廃棄したのだ。実用よりも、ゆたかな趣味、それを重んずるのが、日本人のいいところである。


上司小剣著『蓄音機読本』(1936.6.20発行、文学界社出版部)〜『コレクション・モダン都市文化(第73巻) クラシック音楽』(ゆまに書房刊)収録